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「自分を満たすために、誰かを助けたい」という、メサイアコンプレックスの落とし穴

「自分が人生に悩んだ経験があるから、同じように苦しむ人の力になりたい」

キャリアコンサルタントの資格取得のための講座で、そう口にした僕に対して、講師の先生は「メサイアコンプレックスにならないようにね」と釘をさした。

メサイアコンプレックス? 

そのときはあまりピンと来なかったのだけど、後で調べてみたら、こういうことのようだ。


「メサイアコンプレックス」ーーメサイアは「メシア(救世主)」のことで、自分を満たすために人を救おうとするコンプレックスのことを、こういいます。

「困っている人を助けたい」「人の役に立ちたい」という考え自体はすばらしいことなのですが、その裏に劣等感や自己肯定感の低さがあると、“満たされない自分を満たすために人を助けようとする”ことがあります。「人を助けられる自分は幸せだ」「人を助けることで自分の価値を高めよう」としてしまうのです。
(引用:「「メサイアコンプレックス」を知っていますか? 自分を肯定するために人を助け、自分も相手も苦しくなる - wezzy|ウェジー」


“満たされない自分を満たすために人を助けようとする”。

そのことによって、「相手の役に立ちたい」といいながら、相手をそこねてしまうことがある、ということらしい。

えー、誰かの役に立ちたいってよくないことなの??

と、当時はピンときていなかったのだけど、たとえばこの記事で書かれていることは、メサイアコンプレックスの弊害をあらわしている。



つまり、自らの承認欲求を満たすために、誰かの役に立とうとすると、


・うまくいかなかったときに、責任転嫁しがち
・「聞く」スキルがないにもかかわらず相手の心をえぐる聞き方をしてしまう
・聞いたことを発信することで、相手のプライバシーを損ねてしまう
・出口戦略がなく、取り組み自体が目的になりがち


みたいな弊害があるらしい。

ここで書かれていることは「社会的養護出身者による当事者活動」のことだけれど、それ以外の場面でも当てはまりそうだ。たとえばキャリアカンセリングでも、思ったように相手のキャリアを支援できなかったとき、「カウンセリングに協力的じゃない相手が悪い!」と、責任転嫁してしまったり。


とはいえ、「自分がうれしいから、誰かの役にたちたい」という気持ちを否定してしまったら、世の中から思いやりが消えてしまう気もする。ややこしや!

大事なのは、「満たされない自分を満たすために人を助けようとしてるなぁ、俺」って自覚すること、そして上に書いたようなリスクを考慮すること、なんじゃないだろうか。

以前、noteで「僕らは『ただ、そこにいていい』場所をつくっていくことができる」と書いたけど、そういった「帰る場所をつくる」といういとなみにおいても、「メサイアコンプレックスの落とし穴」に落っこちないように気をつけたほうが良さそうだ。

「せっかくお前を受け入れようとしてるのに、なんで帰ってこないんだ!」なんて言う、毒親みたいになってしまう可能性は、僕にだってあるのだし。





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山中 散歩/生き方編集者
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